2008年12月03日

私設私書箱 稲場 の柑橘の伝来

柑橘の伝来について今日は考えてみました。

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柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化する事の意)との故事が記されている。

日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷が有るが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。

日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(ヤツシロミカン)であるとも言われており、定かではない。

その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。

日本の「ミカン」
ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。約800年前に中国原産の小ミカンが肥後国八代(現熊本県八代市)に伝わったのが元であり、それが紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられたとの説の他、元々紀州有田に自生していたという説等がある。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得たことでも有名である。

ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世に在っては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われる様になり、明治時代以降から徐々にキシュウミカンに取って代わる様になった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。

農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱え、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことからこの説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400?500年前に発生したと推察される。中国から伝わった柑橘の中から突然変異して生まれたとされ、親は明らかではないが、近年のゲノム解析の結果クネンボと構造が似ているとの研究がある
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年02月21日

パロディ

どんな定義なんでしょうか。

現代の慣用では、パロディ(parody、παρωδια)とは、他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法である。文学や音楽、映画を含めたすべての芸術媒体に、パロディは存在する。替え歌もパロディの一形態である。文化活動もまたパロディの素材となる。軽い冗談半分のパロディは、しばしば口語でスプーフ(spoof)と呼ばれる。

文芸批評家のリンダ・ハッチオンは、「パロディとは先行作品に対する批評的な相違を伴った模倣であり、常にパロディ化されたテキストという犠牲を払うものではない」と述べている。別の批評家サイモン・デンティスは、パロディを「他の文化的生産物や活動に対する、相対的な反論の引喩となる模倣作品を生産する、あらゆる文化的活動」として定義している。

古代ギリシア文学では、パロディアとは他の詩歌の形式を模倣した詩の一形態であった。"parodia"という単語は、ギリシア語の「前置詞 "para"(傍らに・脇に)+名詞 "oide"(頌歌)+接尾辞 "ia"」から造られている。これは、「元の歌」があり、それに「添えられたもの(の形式)」という意味で必ずしも「模倣歌」ではないが、日本の和歌等における「本家取り」のような使われ方で、「模倣作品」の意味で使用されたものである。

古代ローマの作家たちは、ユーモラスな効果を狙った他の詩による模倣作としてパロディを解釈した。フランスの新古典主義文学でも、「パロディ」はユーモラスな効果を狙って他の作品形式を模倣した詩の一形態であった。

王政復古期から18世紀前半のその他のパロディは、低級あるいは愚劣な人物や慣習を笑いのめすために、真摯かつ崇高な作品の模倣を使用していた点で、ドライデンのパロディと似通っていた。この概ねサミュエル・バトラーと彼の詩『ヒューディブラス』に代表されるジャンルは、一般に擬似英雄詩と呼ばれていた。意識して組み合わせた場合は、非常に真摯あるいは高尚な形式と、非常に軽薄あるいは無益な主題の対照がパロディとなる。この組み合わせが意識されない場合は、漸降法(bathos)(『ロンギヌス』のアレクサンダー・ポープによるパロディ、『ペリ・ベイサス』に由来)となる。

ジョナサン・スウィフトは物語体の散文にパロディという言葉を用いた最初のイギリス人作家である。パロディという用語があらゆる軽侮の意図による文体模写を示すための用語であると見なされるようになったのは、おそらくはスウィフトによるパロディの定義への誤解による。『桶物語』の1705年の版に追加された序文「その他の弁解」において、パロディとはある著者の本質を暴露するための模倣行為であると、スウィフトは述べた。この発言の本質は、パロディを茶番(バーレスク)や嘲弄とほとんど差異のないものであると見なすことにあった。そしてスウィフトの言語に対する注意力から鑑みるに、スウィフトがこの意味を承知していた可能性は充分にある。実際は、スウィフトによるパロディの定義は、説明や言葉の借用という、ドライデンにより想定されたパロディの定義と同一のものかもしれない。

ジョナサン・スウィフト以降、パロディという用語は専ら嘲笑的な言及、特に物語による言及に使用された。

より古い語義では、ある作品の要素をその作品の文脈から取り出し、別の作品に再使用する場合も、パロディと見做すことができる。そのような意味ではパスティーシュは、ある作品に属するキャラクターや設定をユーモラスな手法で他の作品に使用する、パロディの一形式である。

例えばフラン・オブライエンの小説『スウィム・トゥ・バーズにて』では、狂王スウィーニーとフィン・マックール、妖精プーカにカウボーイ達といった面々が、ダブリンの宿屋で一堂に会する。日常的な設定と、神話の登場人物やジャンル小説のキャラクターの混交から得られたユーモアは、いかなる元作品のキャラクターや原作者から演出されたものではない。この確立かつ確認されたキャラクター達を新しい設定で組み合わせるというパスティーシュの手法は、ポストモダンにおける、架空の歴史的キャラクターをその文脈から取り出し、隠喩的要素の提供のために用いる慣習と同じものではない。しかしながらブランク・パロディ(無表情なパロディ)は、作家が他の芸術作品から骨格形式を採用し、新たな内容を備えた新たな文脈の中に配置するという手法において、ポスト・モダンと共通するものを持っている。

幾人かのジャンル映画理論家達は、任意の(特に映画作品の)作品ジャンルにおける発展過程の産物としてパロディを認識している。例えば、古典演劇では慣習的なジャンルと定義されている西部劇の舞台設定は、同じく慣習的に風刺文学と定義されているパロディ作品の舞台にも応用された。古典的な西部劇を経験してきた多くの観客は、西部劇ジャンルに対する固定観念を抱いており、パロディ西部劇はそれらの固定観念を裏切ることによって、観客の笑いを誘ったのである。

時折、パロディの評判はパロディの元作品の評判より長く続く。小説における有名な例にヘンリー・フィールディングの小説『ジョセフ・アンドリュース』(1742年)がある。これはサミュエル・リチャードソンの陰鬱な書簡体小説『パミラ』(1740年)のパロディである。また、『いい年なのに、ウィル親父』等に代表されるルイス・キャロルの多数のパロディは、いずれも元作品より広く知られている。

きわめて稀な例として、作家が自作のパロディを書くことがある。これらはセルフパロディと呼ばれる。シャーロック・ホームズシリーズにおいて作者のアーサー・コナン・ドイルは、シリーズ中断期にワトスン博士を揶揄した作品を執筆している。

音楽のパロディの幾つかは、"Mondegreen"(en)として知られている聞き間違いによって占められ、幾つかはそうではない。
(以上、ウィキペディアより引用)

パロディって難しい言葉なんですね!

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2008年01月21日

射幸心

本当にこれにやられてます。。

射幸心とは、幸運を得たいという心理状態では在るが、多くの場合に於いては「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい」と思い期待することである。ただしばしば、根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでいる者もおり、これらの人々は幸運を得ようと自己資産を浪費する傾向も見られる。

一般には古くから「幸運のお守り」なるものが流通しており、また「ゲン担ぎ」など幸運を呼ぶための「お呪い」と呼ばれる行動様式が存在する。こういった物品を持っていたり行為をしたからといって、統計学や確率論の視点からは、ある事象の発生する確率が変動することは在り得ないのだが、こういった物品を求める者は絶えない。清水次郎長や森の石松の墓石は、しばしば神秘主義的な伝説などにより、ギャンブル愛好家により破壊され、その破片をお守りにされるといった現象も聞かれる。

こういった射幸心に絡む人の活動を別の視点から見ると「鰯の頭も信心から」ということわざも思い出されるが、古くから人は幸福を追求する過程に於いて様々な方法論を論じており、その中には風習などの形で行事などに姿を変え継承された文化もみられる。

ギャンブルでは、その多くが偶発的に様々な状況が発生しうる一種の乱数発生器を用いて、その発生器の未来の状態を予測する形で賭けが成立する。ルールが複雑化し巧妙化されたギャンブルでは、その現象の発生し易いと予測される結果ほど配当を低めにし、発生し難い結果ほど配当を高めに設定するなどしている。投票によって配当率に変動が発生するギャンブルでも、その各々の投票者が結果の発生確率を予測して投票しているため、高配当な「起こるであろう結果」ほど発生確率は低い傾向にある。

これが健全な精神性の持ち主であれば、低配当でも高配当でも自分の好む結果に賭け、その予測の当たり外れが確定する過程を楽しむ訳であるが、射幸心が強すぎて正常な判断力を失っている者は、高配当を期待して無暗に低い発生確率である結果にのみ賭ける傾向にある。例えば競馬では万馬券など大穴狙いの一点掛けをする行為であるが、こういった状況にあるものの多くではギャンブル依存症(→依存症)の疑いもある。

ギャンブル依存症の場合、自分の支払能力を超えて賭けに参加する傾向があり、その結果として破産するなどのケースでは社会問題ともなっており、日本ではパチンコ依存などの問題も発生している。カジノ運営が合法的に行われている地域では、こういったギャンブル依存に過剰に融資したりすることを禁じている場合もある。

日本ではギャンブル性の高い(言い換えれば配当の格差が大きい)遊戯に関しては制限されており、先に挙げたパチンコではギャンブル性を高めた遊戯装置が「射幸心を煽る」として制限されているケースが見られる。ただパチスロなどは一回の遊戯で使える金額が高額になりやすいなどしており、これが議論を呼んでいる。
(以上、ウィキペディアより引用)

どれだけこれでお金を使ってることか…。

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2007年12月06日

弾圧に屈するな!

弾圧は嫌な言葉です

弾圧(だんあつ)は、権力を濫用し与える加害行為。権力者側による弾圧を組織的弾圧と呼ぶこともある。

一般的には統治者による権力、暴力などの攻撃によってある個人や団体を精神的もしくは肉体的に圧迫する行為を指すが、被統治者側による弾圧も発生しうる。特に国営報道機関が、統治者側の介入時にはプロパガンダや情報操作によって、弾圧に手を貸すことが多い。弾圧は、個人や団体が自分たちの集団より劣っているという意識、あるいは無自覚ながら劣っているという思い込みが背景にあることが多い。

年の日本では、統治者側が自らへの批判を不当なものとして「弾圧」と呼ぶ事例もある。

1948年12月10日に国連で採択された世界人権宣言は、基本的人権の尊重を定義し、全ての権力が尊重すべき基本理念を提案することで、弾圧の根絶を目指すものである。

かつては社会には弾圧により階層化があるとする意見が支配的であったが、近年の研究でこの見解は否定されている。しかし、未だに一般的に広く使われており、弾圧や差別の存在理由として、暗黙のうちに認められていることが多い。

一方で、オウム真理教(アーレフ)のような破壊的カルトが、当局による違法行為取締・活動規制を「国家権力による弾圧であり信教の自由の侵害」として非難・自らを正当化する事例も見られる。しかし、警察官が勝手に転んで見せ、公務執行妨害罪と難癖をつけ目の前の相手を逮捕する「転び公妨」など、相手によってはどのような手法も許されるとする当局側の姿勢が、このような批判を生んでいることも事実である。

逆に言えば、相手が社会的に絶対悪と印象づけることができれば、弾圧と言える行為であっても、多大な支持を集め、むしろ積極的に民衆を弾圧に加わらせることが可能である。それに対する批判が、たとえ不当な弾圧を法的に批判したものであっても、絶対悪に味方したゆえの批判と断定し、容易に退けられるのである。弾圧がエスカレートするかどうかは、こうした「場の空気」に合ったものかどうかがかなり影響する。【ウィキペディアWikipediaより引用】

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2007年11月12日

日本国憲法について知る事は重要です

日本国憲法について皆さんはどうお考えでしょうか

日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、日本國憲法)は、日本国の現行憲法である。

日本国憲法は、第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦後に、大日本帝国憲法の改正手続を経て1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。施行されてから現在まで一度も改正されたことはない。そのため日本国憲法の原本の漢字表記は、当用漢字以前の旧漢字体である。

国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人と基本的人権の尊重を期するため、国会・内閣・裁判所・地方自治などの国家の統治機構と基本的秩序を定める。この他、戦争の放棄と戦力の不保持が定められていることも特徴的である。

日本国の最高法規に位置づけられ(98条)、下位規範である法令や条約によって改変することはできない。また、日本国憲法に反する法令や国家の行為は、違憲・無効とされる。【ウィキペディアWikipediaより引用】
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2007年10月12日

バイエルン継承戦争について

バイエルン継承戦争(バイエルンけいしょうせんそう、Bayerischer Erbfolgekrieg)は18世紀に中欧で行われた戦争。戦争とは言うものの、本格的な戦闘はあまり行われていない。俗に「じゃがいも戦争」と呼ばれる。

背景
1777年12月、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、これによってバイエルン・ヴィッテルスバッハ家は断絶した。選帝侯家は同じヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが併せて継承することになった。

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がこれに介入する。オーストリアはかねがねバイエルンを自国に編入することを狙っていたが、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争いずれのときも情勢の変化からこれを果たせなかった。ヨーゼフ2世はポーランド分割に続く領土拡張の好機と考え、カール・テオドールに、バイエルン領の割譲を要求した。具体的には、下バイエルンと上プファルツである。カール・テオドールはバイエルンに対する統治意欲が無く、これを二つ返事で受け入れる。ヨーゼフは翌年1月には早くも下バイエルンに兵を進めて駐屯させた。

これに猛然と抗議したのがプロイセンのフリードリヒ大王である。大王はこれによってオーストリアが以前の勢力を盛り返すことを恐れた。オーストリアの拡大を阻止するため、大王はこの領土割譲に断固反対し、列強とドイツ諸侯に支持を求めた。ロシア、イギリスは大王に同調し、ドイツ諸侯も大王を支持してヨーゼフを非難した。これに対してヨーゼフは諸外国への根回しを怠っており、期待していたフランスの支持も得られず、孤立する。やむなくヨーゼフは、一方的な割譲ではなくオーストリア領ネーデルランドとの交換ではどうかと提案したが、大王は拒絶した。交渉は決裂し、開戦に至る。